甲子園2連覇 夏の甲子園大会12勝0敗 5試合連続45イニング無失点 甲子園の土を最初に持ち帰った球児 平成25年野球殿堂入り 電子書籍版
440円(税込)
作品内容
戦後初の夏の甲子園大会は昭和21年(1946)に開かれた。甲子園球場は占領軍に接収されていたので阪急西宮球場で行われた。代表校は西宮市の関西学院寮に呉越同舟で合宿し、共同炊事形式をとった。米は各校、球児がリュックに詰めて地元から持ちより、毎食ごとに寮の賄い婦に渡した。負けたチームは勝ったチームに残りの米を譲った。食糧難、物資不足の戦後、「病弱な身体を丈夫にする」という目的から始めた野球は福嶋一雄の心身にぴったり合致した。毎日、少ないときで300球、多いときで400球投げた。投手でも裸足であるから、軸足の親指の皮は擦り切れ血が滲んだ。そのため右足親指には包帯を巻いた。包帯も何百球も投げるうちには何度も擦り切れてしまう。あとは血を流しながら投げ込んだ。走って足腰を鍛え、さらに腹筋と背筋を鍛え抜いた。チームも空き腹を抱え、必死に練習した。授業が終わって、暗くなるまで、それどころか毎日、暗くなっても練習を続けた。日が落ちうす暗くなると、ボールに石灰を塗ってノックやバント練習が行われた。打ったとき、パッと白粉が飛び散りかろうじてノックがわかった。外野はノックされたボールがよく見えず、数メートル先にきてやっとボールがわかったが、すでに遅く、顔面を直撃し、鼻血を出し、歯を折って血を流しながらノックボールを追った。福嶋は最初のうちはよく打たれたが、打たれっぱなしにはしなかった。どうして打たれたか反省を必ずした。一試合で投げる球数はせいぜい120球くらいである。福嶋はその120球すべての配球を覚えていた。将棋や囲碁の対局者が後日、正確に記憶している棋譜を基に指し手を研究するのと同じである。投球を反芻しながら反省した。
作品情報
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